創建400周年を迎えるにあたり

寛永寺では今年、創建400周年記念慶讃法要が2025年10月10日に行われます。また、創建400周年を記念し、根本中堂天井絵「叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)」の奉納や多彩な行事が行われます。特に「叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)」は縦約6メートル、横約12メートルにも及ぶ巨大な天井絵で、12月より根本中堂にて一般公開されます。ぜひお立ち寄りいただき間近で見ていただきたいです。
天井絵が出来上がるまで https://lp.kaneijireien.jp/EIUrTzCU/blog4
寛永寺創建四〇〇周年記念 https://lp.kaneijireien.jp/EIUrTzCU/blog0
名前の通り、寛永2年(1625年)に徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって将軍の側近として仕えた高僧、天海(てんかい)大僧正によって創建されました。
江戸城の鬼門封じ:江戸城から見て鬼門(不吉とされる北東の方角)にあたる上野の地に寺を建立し、江戸全体の平和と徳川幕府の安泰を祈るため。
「東の比叡山」として:京都御所の鬼門を守るのが比叡山延暦寺であることにならい、「東の比叡山」という意味を込めて山号を「東叡山(とうえいざん)」としました。寺の名前も、創建時の元号「寛永」から取られています。
創建後、寛永寺は徳川幕府の絶大な庇護のもと、芝の増上寺と並び、徳川将軍家の菩提寺(お墓があるお寺)となりました。寛永寺には4代・家綱から13代・家定までのうち、6人の将軍が眠っています。
最盛期の境内地は、現在の上野公園のほぼ全域に相当する約30万5千坪にも及びました。東京国立博物館や東京芸術大学、動物園がある場所も、かつては全て寛永寺の境内だったのです。
上野戦争の舞台に:慶応4年(1868年)、旧幕府軍で徳川慶喜の護衛などを目的とした部隊「彰義隊(しょうぎたい)」を寛永寺はかくまいました。
伽藍の焼失:これを討伐しようとする新政府軍との間で激しい市街戦(上野戦争)が起こり、その戦火によって、壮大を誇った根本中堂をはじめとする伽藍の大部分が焼失してしまいました。
公園への生まれ変わり:戦後、焼け野原となった広大な境内地は明治政府に没収され、1873年(明治6年)に日本で最初の公園の一つである「上野公園」として指定されました。これが、現在の上野公園の始まりです。
壊滅的な被害を受けた寛永寺ですが、明治時代に再建され、現在に至ります。
現在の根本中堂は、1879年(明治12年)に、埼玉の川越喜多院にあった本地堂を移築したものです。天海大僧正は川越の喜多院の住職も兼ねていたという深い縁があり、この移築が実現しました。トラックも重機も無い時代にはるばる川越からやってきた建物だと思うと、見え方が変わってきますね。
寛永寺の中心であった根本中堂があった場所です。上野戦争で焼失するまで、ここに壮大な本堂が建っていました。そう考えると当時の寛永寺の大きさが広大だったと想像できますね。
現在の境内は往時に比べると小さくなりましたが、上野公園内には、戦火を免れた清水観音堂や旧本坊表門(黒門)、五重塔(現在は上野動物園内)などが点在しており、かつての寛永寺の壮大さを今に伝えています。
時を告げる鐘「時の鐘」のすぐ近くに、顔だけが祀られた「上野大仏」があります。もともとは高さ約6メートルの大きな釈迦如来坐像でしたが、度重なる地震で損壊し、関東大震災で頭部が落下。さらには第二次世界大戦中の金属供出で胴体が失われ、顔だけが残りました。 壮絶な歴史を乗り越えてきたこの大仏は、「これ以上“落ちない”」ということで、受験生にご利益のある合格大仏として人気を集めています。
寛永寺の墓地には6人の将軍が眠っていますが、最後の将軍である15代・慶喜のお墓も谷中霊園内の寛永寺墓地にあります。しかし、他の方々が仏式の宝塔であるのに対し、慶喜のお墓は神道形式の円墳です。 これは、慶喜自身がもともと神道だったからです。江戸幕府の終わりを象徴するような、非常に興味深い事実です。
寛永寺の歴史は「徳川の安泰を祈る寺」として生まれ、江戸と共に繁栄し、時代の終わりと共にその姿を変え、現在は「文化の森」である上野公園の歴史を物語る存在とされています。